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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第2回インタビュー 下

●過疎県としては成功した沖縄

江上:沖縄も当初から、屋良さんも目標として琉球政府が自ら作った長期経
済計画の中にも、格差是正と自立経済をめざしましたけれど、なかなかそのようにはならないですね。

下河辺:ただ、過疎県としては割りに成功したって言えないこと、ないんじゃないすか。それは泡盛とかなんか、島根とか鳥取とかっていうところに比べると、経済は動いているんじゃないすかねえ。

江上:経済そのものはですね。

下河辺:むしろ、過疎なのに人口が激増するっていう不思議な県だから、やっぱり暮らしやすいんでしょうね。ある意味ではねえ。

江上:琉球大学を卒業した学生たちもほとんど沖縄に残りたいって言いますからね。

下河辺:そうでしょうね。

江上:私は沖縄には仕事がないから、東京行ったら仕事があるから、若いときは外に出て、武者修行の意味でも出たほうがいいと、私はずっと言ってきたんですけども、出て行かないですね。

下河辺:いやあ、日本の企業、特に中小企業が、琉球の労働者っていうのを特別な扱いになっちゃうんですね。まるで異民族みたいな扱いをするんですね。そして、来た沖縄の若者たちも、ちょっと本土の若者と違うんですね。嫌ならすぐ辞めるっていうアメリカ的な習慣が身についていますからね。だから、日本の中小企業にすると、雇ってもあした来ないかも知れないというのは、ちょっと困るんでしょうね。

江上:そうでしょうね。日本にはいまだいぶ崩れてきましたけども、終身雇用制っていうか一回勤めたら、ずっと長い間勤めるというのがありますよね。沖縄はあんまりそうではないですよね。

下河辺:ないですねえ。

江上:ないですよね。

下河辺:そりゃあ、生活保護とか失業対策とか社会保険とかいろんな仕組みが、終身雇用制のもとに成り立っているものですからね。それが保障できない労働力っていうのは、扱い方が福祉、厚生、医療の面でできないですよね。

江上:それは先生がおっしゃっているように、やはり沖縄が持っている文化と日本本土の文化では、かなり異質な部分があるんでしょうか。

下河辺:いやあ、沖縄の方が、アメリカ型になっているために、日本型への復帰がちょっとまだでききれない。

江上:私が聞いた話によると、沖縄の若者が本土に出て行っても、3年以内に70%が沖縄に帰って来る、5年以内に90%帰るそうです。その理由は、自分の生まれ島の方が暮らしやすいということと、アメリカ型の?

下河辺:なんか価値観が違うんですね。

江上:アメリカ型の考え方でしょうか。

下河辺:だから、経営者の方も働く方も、結局はお帰んなさいってことになっちゃってますよね。

江上:しかし、だんだんいまの日本の若者もアメリカ型になりつつあるんじゃないですか(笑)

下河辺:だからむしろ、都心部へ来るといんじゃないかって、私は思うんですね。

江上:はあ、都心部に。

下河辺:田舎の青年だから、田舎へっていうんで、群馬なんか行ったのがすぐ帰っちゃいましたけど。その都市の近郊っていうのが、一番日本で新しい若者の巣ですから、難しいんですね。

江上:でも私のゼミのかつての教え子のなかで二人くらいは、頑張って東京に出て来たいって言う学生がいますけど。

下河辺:そうですか。


●復帰以降の「国際交流事業」の経緯

江上:是非、出てきて頑張ってみなさいって言っているんですけども。それで、その琉球政府が作った沖縄経済の長期計画をそのまま、第一次振計に組み込んだと先生がおっしゃっていましたけど、その際に、その長期計画では国際交流の推進が前面に出ていましたけども、第一次振計では、もちろん格差是正と自立経済とかいうのが一番大きな柱だったということもあると思うんですけども、国際交流の推進の方は、屋良主席下の琉球政府がつくった経済開発の長期計画に比べて、一次振計では、優先順位がずいぶん落ちてしまったような感じがするんですが。

下河辺:それはさっき言った、南北センターの見込みを失ったからです。

江上:そうですか。

下河辺:ええ。沖縄でもだめ、ハワイでもだめ、東京の政府でもだめっていう事情で消えちゃったんですね。

江上:ハワイの東西センターがだめになったというのはどういう理由からですか。

下河辺:アメリカの政府が重要視しなくなっちゃったんです。

江上:昔は盛んだったですよね。あの東西センターは。

下河辺:そうです。助成金が大きかったのが、半額以下になっちゃったんじゃないすか。

江上:太平洋地域の研究をアメリカはあまり必要としなくなった

下河辺:いやいやそうじゃなくて、アメリカンセンターに頼んないで、タイとかベトナムとか全部それぞれに助成金を出し始めちゃったんですね。

江上:もう直接、現地のほうに。中継地点としての東西センターは使わなくなった。

下河辺:使わなくなった。

江上:そうすると、南北センターも同じような性格ですよね。

下河辺:南北センターは野村総研がやっていてくれたけども、野村総研が相手にしていた東西センターがだめなために、しかも担当者が野村総研を卒業したために、力がなくなっちゃったんですよ。

江上:そういうことがあるんですね。

下河辺:野村総研がそのままやってくれてたら、民間レベルでできたかもしれないんすけどね。

江上:そうですか。国際都市形成構想の作成にも、野村総研はいろいろ係わっていますね。

下河辺:ええ、やってた。

江上:報告書も出していますよね。

眞板:あの、南北センターのお話って、二次振計じゃないですか。一次振計からあったんですか。

下河辺:いや、一次振計からは、東西交流っていうことでは言っているわけです。

眞板:実際こう、復帰後の6年間、西銘県政誕生するまでの間を見るとですね。どちらかというと、つぶれ地補償、いわゆる戦後補償みたいな部分だとか、インフラ整備であるとかっていうことに重点投資が行われて、その締めくくり的な部分が、交通法規の改正でナナサンマル。で、結局、その心労がたたって、平良幸市さんがお辞めになるわけですけども、それを引き継いだ
西銘順治さんの時代に、一次振計の最後の部分と二次振計に繋げていくって部分で、国際交流拠点形成構想と。パーンと出してくる。

下河辺:いや、具体化が進んだことは西銘さんのときからです。一次振計から山中貞則がやってたころからすでに、国際交流拠点って言って、日本の南部の拠点ということは、言っていたですよ。そして、16世紀の琉球っていうことをモデルにっていうことは言っていたですね。

江上:山中さんも言っていたんですね。

下河辺:ええ。

江上:ああ、そうですか。屋良さんも琉球政府の人たちも、そういうことを一生懸命言っていた。

下河辺:そうです。

江上:ですよね。

下河辺:いや、東京からの遠隔地で、その格差是正だけのテーマっていうことには、琉球の人たちはしたくないんですね。

江上:そうですね。

下河辺:なんかそれは復帰して、本土に隷属するって意味でしかないわけ。そうじゃなくて、やっぱり世界の沖縄っていうイメージを持ちたかったんじゃないすかね。

江上:それと、沖縄の人たちの琉球民族としての意地やプライドがあったんですね。そういったプライドとかも大事にしなくちゃだめだし。

下河辺:そうですね。

江上:難しいところですね.

眞板:先ほど長期計画が振計にそのままスライドしたという話が前回あったんですが、ま、細かい話で恐縮なんですけど、たとえば、10年後の人口フレームが何万になるかという部分で比較してみるとですね。長期計画は109万人になっているんですよ。ところが、振計は102万人で、若干、下方修正されていると。やっぱり、振計を策定していく間にですね、長期計画をかなりブラッシュアップというか、なさってたんじゃないかなあという風に感じるんですけども。

下河辺:あのころのことだから、一人当たりの所得っていうことで、レベル
を図るっていう意味では、本土並みっていう言葉に当てはまんのは、全国の8割くらいにいかなきゃ言えないだろうっていう、そういう逆算から一人当たりの所得を出してきたんですね。だけども一人当たりの所得が高すぎたら実現できない、ということで、いろいろ論争の結果として出てきた数字ですね。


●沖縄開発庁について

江上:次に、先生があんまり賛成でなかったという沖縄開発庁も、一応、役割を終えましたので、沖縄開発庁についても少しお伺いします。
沖縄開発庁の設立の経緯についてですが、どのあたりが沖縄開発庁を作るために、中心になって動いたんでしょうか。

下河辺:そりゃあ、佐藤内閣としては、絶対必要だったんじゃないすか。

江上:内閣として。

下河辺:はい。核抜き本土並みっていうことで、沖縄の振興計画は政府の責任で行うっていうことを公言しているわけですからね。その実施部隊が、各省庁ばらばらじゃあしょうがない。ということで、各省の仕事を集合して、開発庁にしようということになって、担当大臣まで作ったっていう。予算要求も沖縄だけは、統一的に大蔵省に予算要求できる道を開いたわけでしょ。それはまあ、政府としては当然のやり方だったでしょうね。

江上:そうですか、それはやっぱり、佐藤内閣のたとえば、山中さんとかで
すか。

下河辺:目玉ですよね。

江上:山中さんもそういった主張をなさったんですか。

下河辺:そうです。

江上:中央の省庁は、そういった統合的なものができるというのは、当初、反対だったと聞いていますが。
下河辺:反対っていうか、一般的にタテ割りはどうすんだっていうことはありますよ。それでも、沖縄の複雑さっていうのは、自分たちでこなせないっていう気持ちもあるんですよ。そりゃあ、全体どうしたらいいかっていうことの中で、自分のタテ割りをどうしたらいいか、わかんないでしょう。

江上:そうですね。

下河辺:だから、開発庁っていうようなところで、調整した結論をタテ割りに流して欲しいっていうやり方になったんじゃないすかね。

江上:基地負担の見返りとして国が経済振興を責任もってやるために、沖縄開発庁を作って、そこに中央政府が直接関わるというような形は、前回の話では、先生としてはあまりそういうことはすべきではなかったとおっしゃっていました。沖縄開発庁的なものを沖縄の人たち自身に運営させるような工夫をすべきだったんじゃないか、と先生はおっしゃっていましたね。

下河辺:そう、それができないから、開発庁方式をやろうとしたわけですね。

江上:先生おっしゃったような構想は無理だから。

下河辺:ひとつの理想っていうものを掲げたけども、それは事実上不可能なの。だから、特別の役所作ってやって、何年後にこの役所がいらなくなるかっていうことを期待していたわけですね。もうそろそろいいんじゃないすかね。


●特別県、地方分権化への議論

江上:2001年1月、沖縄開発庁は姿を消しました。まだ内閣府の中に沖縄担当部局はありますが。

下河辺:ええ、ですから、内閣としては、いつ地元に戻すかってことを考えているんだけれども、地元は嫌なんですね。国にそういうところがあるほうが、予算の陳情がやりやすいんですね。そのため、地元の利益として反対っていう面がひとつあるわけです。もうひとつの側面っていうのは、権限もなしにっていうことはだめだから、沖縄に関しては持っている権限を沖縄県の知事に譲渡するっていうことを法律上やるかどうかが勝負なんですね。権限がなけりゃ予算もってたって意味がないわけでしょ。だから、予算と権限が繋がった形で、分権化を議論しなきゃなんない、わけですよね。

江上:それはいわゆる沖縄州構想ですか。沖縄を州にするということでしょうか。

下河辺:州っていうかどうかは別問題すね。

江上:もっと大幅な自治権を与えるということですね。

下河辺:いや、大幅かどうかわかんないけども、特別な知事って感じになるんじゃないすかね。知事会議のなかであっても、特別な知事っていうのを作ったらどうかと思うんですね。そして、これとこれとこれとは、ほかの知事にはできないけれども、沖縄県の知事には権限を与えるっていうような、特別な、なんすか、分権化の形をとったら、いいんですよね。

江上:それはいま、北海道をひとつの州にしようという考え方とは違うんですか。

下河辺:いやあ同じです。

江上:同じですか。

下河辺:はい。だから、北海道庁と沖縄開発庁と沖縄県の開発庁、北海道の開発庁とは同じ議論をしたらいいですね。

江上:同じ議論を。

下河辺:だけどそれやると、すぐに道州制っていうから、話がこんがらかるわけで、

江上:道州制というから、かえって、こんがらかるのですか。

下河辺:道州制っていうのはねえ、地方でなくなっちゃうんですよね。十ブロックを中心に言っているとしたら、あれはやっぱり国の機関じゃないすかね。県の機関にはなんないすよ。そこがひとつの議論なんで、定住圏でもできれば、また違ってくるんでしょうけどねえ。道州制っていうのは、私はあれは国の組織だと思っているもんですからね。

江上:そうですね。道州制を唱えているのは、国の組織としてとらえる人と、地方自治の拡充だととらえている人の両方です。これは真っ二つに分かれていますね。

下河辺:分かれたって、地方の人は、本当に道州制を地方分権化って思ってますかねえ。自分の県がなくなっていいっていうこと言います? 

江上:沖縄は九州に組み込まれて、うれしいとは言わないでしょうね(笑)。

下河辺:そんなこと考えられないでしょう。


●開発庁反対論について

眞板:先生のその開発庁反対論っというのは、少しは政府部内で検討されたようなことってあったんでしょうか。まったくなかったんですか。

下河辺:いやあ、いままでだって、年中やっていて、いまでも内閣でそういう議論をしているわけじゃないすか。

眞板:70年、71年当初も、佐藤内閣の中枢まで話は通ったってことなんでしょうか。

下河辺:そうですね。

江上: 当時の状況としては現実的に無理だったんですか?

下河辺:それはとても無理でしたね。それと、特に地元も逆の方向を向いていましたしね。

江上:そうですね。屋良さんも沖縄開発庁を要望しましたし。

下河辺:ええ。そうです。

江上:主管大臣を置いた沖縄開発庁を要望されましたね。

下河辺:主管大臣で、補助金をちゃんと用意してくれっていうことを屋良さんが言いましてね。


●沖縄問題等懇話会との関係

江上:そうですね。ところで、沖縄問題等懇話会が佐藤内閣のときにありました。大浜信泉・前早稲田大学総長が座長でしたが、沖縄問題等懇話会と接触はあったんでしょうか。

下河辺:いや、接触はありましたけども、私たちの国土の国土政策を立てる人間は、沖縄だけは別だっていう認識に置かれていたんですね。沖縄開発庁長官に任せたんで、脇から余計なことを言うなっていう気分さえありましたね。だから、私にすると全国をやっていながら、沖縄だけはちょっと特別扱いっていう気分でした。

江上:国土庁のスタッフとしての立場と、それからまた佐藤内閣の要請で沖縄との関係の構築を屋良さんと一緒にやられたという、そういうふたつの役割があって、その役割の間を行ったり来たりしながら、先生は働かれたと思うんですが、それでは沖縄問題等懇話会では、いろいろ話をされたりするようなことはあまりなかったのでしょうか。

下河辺:そのね、沖縄開発法っていうのは、私たちの国土開発とか国土建設の範囲を超えて、福祉とか医療とかまで含んだ仕事なんですね。だから、沖縄県人の全生活を担当する開発庁だったわけですから、われわれと範囲がちょっと違うっていうことも、ひとつの特色でしたね。

江上:沖縄開発庁の設立について最初のころ言い始めたのは、この沖縄問題等懇話会だったみたいですね。

下河辺:そうです。

江上:最初にね。そのうち、屋良さんも作ってくれというような状況になるわけですけども、70年5月、先生が屋良さんに会われる以前に、沖縄を訪ねた山中総務長官に対して、琉球政府は要求89項目を提出しました。その中に国務大臣を長とした沖縄開発庁の設置というものを提出しているわけですね。そのときは、期待のみといいますか、中央政府が沖縄に何をしてくれるか、という期待ばかりが先行していて、まあ、はっきりした明確な骨格みたいなのがなかったし、もちろん、自治の視点というのはなかった。ところが、71年になって、琉球政府の若手職員を中心に構成された行政研究会のメンバーが、開発庁反対論を言い出してくる。それから総合事務局反対論も言い出す。それはなぜかというと、大きな役所が沖縄にやってくると、沖縄の自治権が脅かされると、いうような立場からの反対でしたね。先生はその当時、

下河辺:いやあ、反対した理由っていうのは、そういう開発庁ができる前に、沖縄っていうのは米軍が占領して、米軍の管理下にあって、しかも日本としては大使を派遣して、大使の意向で沖縄は対応しているような時代でしたからね。で、それは復帰したとたんに、全面的に変わるっていうことは、なかなか難しかったわけですね。外務省が対応している時代がずっと続いているわけですからね。

江上:そうですね。


●沖縄は“外国”だった。独立派の青年との議論

下河辺:すごい簡単に言えば、外国だったんですからね。

江上:外国だったんですね。当時は高瀬大使がいましたね。

下河辺:そうです。そうです。高瀬さんがやっておられた。

江上:だから、日本から見ると外国だったということは、当時の琉球っていうのは、米軍下であっても、半分独立みたいな形だった。それはやっぱり、日本の一部になって

下河辺:独立したいって言う青年たちもいっぱいいましたよ。

江上:いましたね。

下河辺:夜中に宿のほうへ、独立派の青年たちが訪ねてきて、議論をよくしたもんですよ。どっちがいいだろうって、

江上:でも、独立派の人たちは現実にそういう政治行動を起こしたとか、政治組織を作ったということにはならなかった。

下河辺:ならなかったです。

江上:ならなかったですね。

下河辺:いかなかった理由っていうのは、そういう青年たちに飛びついたのが、過激派の革新系だけだったんですね。そうすっと、彼らと一緒にやるのは、嫌だったんすね。簡単に言えば、共産党と一緒なんていうことは考えられないっていう、そういうような政治的な判断で話が消えていくんですね。だけども、独立したら国連に一票持てると、この一票は値段が高いっていうようなことを考えている青年もいましたね。日本はその一票を買い取るために、いっぱいお金を払ってくるに違いないっていう。

江上:(笑)なるほど。

下河辺:そんなことさえ議論した時代ですよ。

江上:はああ、面白いですね。あの、その若い人たちのなかに、吉元さんはいなかったんですね。

下河辺:いなかった。

江上:仲吉良新さんはいなかったですか。

下河辺:そう、そう、仲吉なんかもいたよ。

江上:やはり、そうでしょう。

下河辺:自治労系ですよね。

江上:そうです。

下河辺:吉元だって自治労系。

江上:吉元さんはその中に入っていなかったんですね。

下河辺:そう、そう

江上:仲吉さんは入っていたんですね。

下河辺:入ってた。彼はむしろ穏やかなほうの代表ですよ。

江上:そうです。穏やかなほうの代表です。その後、自殺なさいましたね。

下河辺:そうですね。自民党の連中なんかと話していると、あのころ面白か
ったですね。

江上:そうですか。自民党の人たちとの話が。


●瀬長亀次郎氏との議論

眞板:瀬長亀次郎さんともお話をなさったんですか。

下河辺:ええ、そうですね。

江上:そのなかに瀬長さんも入っていたんですか。

下河辺:そうです。

江上:人民党は最初、独立論を掲げていましたからね。

下河辺:そうです。

江上:途中から変わりましたけどね。

下河辺:そうです。

江上:瀬長さんともご議論なさったんですか。

下河辺:そうです。だから、私は沖縄に関しては、どんな政治的な立場の人たちともよく話しましたね。

江上:瀬長さんにはどういう印象を持っておられます?

下河辺:いや、やっぱり彼は、米軍の問題が中心でしたからね。だから、米
軍どうするっていうことに触れないで、沖縄って議論する人が、多かったときに、米軍っていうのをどう見たらいいかってのを彼は一所懸命考えている人でしたね。

江上:米軍に真正面からぶつかって。

下河辺:だから、市街地戦なんていうことを予想してたんですからね。

江上:市街地戦ですか。

下河辺:ええ、米軍が那覇の街の中で、銃を使うようなことになったら、日
本どうすんのと。本土は助けに来てくれるのかしらっていう。

江上:はあ、そういう議論をしてたんですか。

下河辺:そういう議論です。

眞板:それはどういう状態を想定してたんですか。

下河辺:いやあ、やっぱり政治的なトラブルでしょ。で、アメリカは反共と
見なせば、銃を撃つっていうのが、常識でしたから、沖縄で自分たちが動くと、共産主義者だっていうことを理由に、銃を持ってくんじゃないかっていうことを心配している人もいましたね。

江上:実際、瀬長さんは那覇市長を追放されました。

眞板:そうですね。56年ですね。

江上:56年に市長の職を剥奪されていますからね。

下河辺:そうですね。

江上:米軍によって。彼は身をもって体験していますから。

下河辺:そうです。

江上:だから、米軍と沖縄住民との対立が激化して、そういう戦いになった
場合というようなことも考えていたわけですね。
下河辺:予想しているわけです。

江上:要するに、内乱状態ですよね。

下河辺:そのとき、日本政府は助けに来ないだろうと、言ってんですね。

江上:ほお。

下河辺:日本の自衛隊が、アメリカの兵隊に鉄砲を撃つなんていうことは、
とてもできないじゃないの。だけど、アメリカの兵隊は、銃を持たないわれわれに射撃してくる危険はゼロではないですっていうようなことを彼らは言っていましたね。

江上:瀬長さんは戦争も体験していますからね。

下河辺:そう。

江上:感覚が違いますよね。下河辺・瀬長会談とは面白い組み合わせですね
(笑)

下河辺:沖縄には私のことをどう理解していいか、わかんない人だったんじゃないすかね。誰とでも仲良く付き合ってるみたいだから。あいつの頭ん中どうなっているんだと言われたりして。

江上:そうでしょうね。先生みたいにいろんな人と自由に話す方は当時、日本政府から来た人でおられなかったでしょうしね。

下河辺:最近、沖縄に興味もって勉強している、私の後輩でフクシくんっていうのがいるんですけども、フクシくんが沖縄行って呆れたと、沖縄かき回したのあなたですねって、誰と会ってもあなたの話が出てくる。いったい、どうなってんですか。

江上:(笑)そりゃそうですよ。先生は沖縄では有名ですから。


●楠田氏との思い出

眞板:あの、お茶の間的な質問で恐縮なんですけど、まず、沖縄に行かれるお話があったですね。貞則長官から。やっぱり事前学習とかなさったんですか。

下河辺:だって、学習のしようがないじゃないですか。だから、佐藤内閣が作った日米安保のもとでの沖縄返還っていうあたりの資料は、ちょっと見ていきましたけど。だけど、私には佐藤内閣の理解がちょっとできないことが多くてね。沖縄返還っていうことをノーベル賞まで取って成功した裏には、アメリカに何の約束をしたのかっていうのは、必ずしもはっきりしないんですね。変なふざけた言い方をすると、等価交換だったんじゃないかっていう。そうすると、沖縄返還に見合うアメリカへの返戻って何を言ったのか。繊維問題だけが表面に出ちゃいましたけども、繊維だけでやるわけないすよね。だけど、今でも分からない隠れた話が、いっぱいあんじゃないすか。で、それを一番よく知っている、佐藤総理の秘書官だった楠田さんが死んだために、わかんなくなったですね。「楠田日記」作ったけども、楠田さんそこのところをやっぱり手帳にはあんじゃないかと思うのに印刷には書いてませんね。ま、ロッキードとか繊維とか、そういう部分的には出てきますけどねえ。

江上:若泉さんもそういう密使的な役割をしました。

眞板:米軍施設の買い取りの部分で、特に沖縄に流通していた米ドルの部分をちょっと高めに買い取って、その分、米国債とバーターにしてっていうような話はちらちら出てきています。

下河辺:いろんなことをやったんじゃないかと、思うんですね。田中角栄っていうのは、その佐藤さんの後始末を背負っちゃったから、かわいそうな総理だったですね。病気して死んじゃったからいいようなもんで、生きてたら佐藤内閣の罪を全部背負わされたんじゃないですかねえ。

江上:先生の楠田氏追悼文のコピーを高島さんに送っていただいて読ませていただいたんですけども、楠田さんは要するに、黒子として沖縄返還に尽力されたわけですね。

下河辺:いやあ、会ったときは最初は新聞記者に過ぎないわけですからね。それから、佐藤内閣に入っちゃって、沖縄のことせっせとやっておられて、楠田さんっていうのは、やっぱり沖縄にとってはちょっと特別な人ですね。

江上:それで、先生がおっしゃったように、一番大事な部分はやはり言わな
いまま、亡くなったんですね。

下河辺:言わないっていうのはねえ、佐藤内閣がその福田さんに譲らないで、田中さんに譲った理由が書いてないんですよ。一番よく知っているはずなんですよね。楠田さんが。それ書いてないんですよ。だから、私、直接楠田さんに、言ったんですよ。ここ書いていないと。これはちょっと手落ちじゃないかと。なんであれだけ、福田、福田って言っていたのに、突然、角栄にしたんだ。そしたら、彼は自民党の中がいつの間にかそうなってたんですっていうような返事しかしてくれなくて、そいで、死ぬまでにはもう一度、手記を追加して書いてくださいよって言ってたら死んじゃったんですよ。そこは永遠の謎なんですね。

江上:たしかに謎ですね。私たちから見ても、ちょっと不思議な流れですね。

下河辺:不思議ですよね。やっぱり、佐藤さんの後始末は、福田さんのようなやんごとない政治家じゃあ無理って思ったんじゃないすかね。

江上:清濁併せ呑むような政治家じゃないと。

下河辺:ええ。

江上:田中さんの方が適任だったわけですかね。

下河辺:田中さんにやって欲しかったんじゃないすか。

江上:福田さんだったらちょっと大変だろうなというのがあったかもしれませんね。


●山中貞則氏との馴れ初め

眞板:何度も同じようなご質問をしてて恐縮なんですが、先生って、当時、経企庁の参事官かもしくは研究開発調査室長をなさっていたころだったと思うんですが、山中貞則さんって総務庁の長官ですよね。で、なんで省庁が違う一官僚、ま、国土計画ではプロフェッショナルということで、お名前は通っていたと思うんですが、他省庁の役人をひゅっとこう一本釣りみたいなことができたんでしょうか。

下河辺:いや、一本釣りじゃなくて、なんか、貞則と付き合ったのは過疎法で付き合ったんです。貞則が鹿児島県を特別にっていうときに、特殊土壌っていう法律でやっているのが、限界にきちゃって、次に過疎法でやりたいと言い出して、過疎って村をどこにするかっていう選定を私が担当して、それを全国に当てはめると、どういうことになるかっていうことを計算した上で、過疎法を議員立法で作ったのが、貞則との仕事の最初なんです。そのときに、なんか沖縄のことを頼むって言ったのが、そのときのことがあって、あいつ行かせようかってことになったんじゃないすかね。

江上:その過疎法は何年ぐらいですか。

下河辺:過疎法何年だったかなあ。忘れちゃったなあ。なんか知らないけど、そのころずいぶん、ごちょごちょやりましたよ。

江上:そのほかにも下河辺先生はいろんな仕事をなさってますからね。

下河辺:そうなんですよ。

眞板:全総のころじゃ、なかったでしたっけ?

江上:数年前ですね。

下河辺:ちょっと、全部が記憶がちょっとあいまいかもしれない。

江上:先生、こちらで調べておきます。


●沖縄視察時の手続きについて

眞板:そうすると、先生、沖縄行かれて、出張ですよね。出張で行かれている? で、すごく下世話な話で恐縮ですが、やっぱり出張報告書みたいなのは、山中貞則さんにあげてたんですか。
下河辺:そのころは、公務員は出張報告書なんて作ったことはないですよ。

眞板:あ、そうなんですか。

下河辺:会計上の報告書だけで、中身作らないですよ。

江上:良き時代ですね。

下河辺:私が役所に入った内務省のころは、特命書を局長が、その判を押してくれないと旅費くれなかったんです。それはいつの間にか崩れて、行ってきましたって言えば、それでおしまいで、

眞板:会計先は、総務庁に持っていかれたんですか、経企庁ですか。

下河辺:経企庁です。

眞板:あ、経企庁で、落ちたんですか。

下河辺:それで、ただ、パスポートが入りましたから、パスポートは総理府で出してくれました。

眞板:それは外交官みたいなやつですか。

下河辺:外交官というか公務員の

江上:公務員の特別なパスポートですよね。普通のパスポートではなくて。

下河辺:緑色のパスポートです。

眞板:出張行かれて、口頭で山中貞則さんにご報告したって、そういう感じですか。

下河辺:そうです、そうです。もう、私が帰ってくる前に、ほとんどのことは、連絡があって、知ってましたね。

眞板:ほう。


●米軍と折衝する際の身分

下河辺:なにしろ、大使がいましたから、大使からどんどん政府に報告がいっちゃうもんですからね。

眞板:米軍とのお話がよく出てまいりますけど、当時、あのUSCARですよね。米国民政府ですよね。

下河辺:そうです。

眞板:で、その当時、お立場的には日本政府特使みたいな感じでよろしいんですか。ま、特使というと語弊があるかもしれませんが。

下河辺:特使というような事例はないですね。ただ、特使のパスポートですから、普通のパスポートと違って、沖縄に行くためだけのパスポートを発行してましたから、それを持って行くと、ま、一種の政府からの特使的に映るかもしれませんね。

江上:オフィシャル・パスポートですね。

眞板:米軍の窓口っていうと、そうすると、どういう人が先生の担当というか、なってたんですか。

下河辺:いやーなんかいろんな人が担当してましたけども、やっぱり司令官が最終的にはあれですけど。だけど、現実的には司令官なんかと直接議論することは、まずありませんでしたからね。


●拠点開発方式が沖縄でも採用された理由

眞板:あと、長期計画が振計にスライドしていくというところの話なんですが、当初、琉球政府もですね、おそらく当時日本でやっていた全総であるとか新全総というものを参考にしたんじゃないかと思うんですが、コンビナート等の拠点開発方式を採用していた形跡はかなり残っていたと思うんですよ。ところが、当時、日本では確か先生も「国土開発の証言」の中でですね、当初、予定していたものよりもいっぱい企業が来ちゃったから、環境問題であるとか健康被害の問題が出ちゃったんだよと、公害が出ちゃったというお話のされかたをなさっているんですが、おそらく沖縄側は、この拠点開発方式というものを復帰の準備作業が経るにしたがって、見直していくような感じに変わっていったと思うんですよ。で、最終的には、屋良さんが71年の11月に「建議書」を携えてきたっていうことで、拠点開発方式、いわゆるCTSなんかもそれに入ると思うんですけれども、そうではない復帰の仕方をしたいっていうことを訴えておられたようなんですね。で、前回の先生のお話の中で、コンビナート含めて拠点開発的なものは、沖縄という地理的位置関係から言っても、うまくないというお話があったもんですから、ではなぜそれが、振計に反映されなかったのかなと。あるいは修正できなかったものなのかなあという部分についてお伺いしたいのですが。
下河辺:復帰以降書いてないんじゃないですか。

眞板:中城湾の開発のことはかなり、全面に出ていましたよね。

下河辺:だけど、中城湾の方へいっちゃったんだけども、なんかもともと沖縄では、石油基地をふたつの企業が争ったというのが最初なんですよね。

眞板:外資

下河辺:外資がひとつ、外資が引き揚げてっちゃった理由は、ちょっとよくわかんないんすよ。住民の反対があるのでっていうことえを理屈にしているけども、そうではないんですよね。だから、おそらく企業としての立地が適当でないっていうことに気がついて、退いていったんじゃないすかね。だけど、日本の企業は三菱石油が最後までなんかやりたいって言ってやってたのを、結局、引き揚げることになった。ちょっとすみません。

<インタビュー中断>

●屋良知事の「建議書」と自治権

江上:沖縄開発庁の問題にまた戻るんですけども、若手職員たちから開発庁反対論が出てきて、沖縄から自治権が奪われると彼らは主張した。本土の一部になるということはそういうことだと予想されていたわけですね。だが当時の沖縄としては、そういった自治権の問題が出てきて、彼らの主張に押される形で、屋良主席の「復帰処置に関する建議書」の中に、復帰にあたっての基本原則のひとつに地方自治権の確立が盛り込まれます。沖縄県のような小さな地域に大きな国の機関を設置することが、沖縄の自治を侵害することになることを危惧し、自治の最大限の尊重を求めるという項目が、1971年11月の屋良さんの建議書に盛り込まれるんですね。最初は沖縄開発庁を作ってくれと屋良さんも言ってたんですけども、復帰の間近になってそうなった。

下河辺:私は屋良さんは相当迷っていたと思いますね。そういう建議書を出すことは、沖縄の選挙戦にとっては、絶対必要なんですね。
江上:選挙ですか。

下河辺:ええ。選挙の応援団体に対して、必要であった。

江上:支持母体に。

下河辺:支持に。

江上:ようするに革新の支持母体にですね。

下河辺:そうです。自民党に頼ろうっていう屋良さんのそのやり方と、選挙に対する革新系の支持を得るっていうこととの間に、ちょっと谷間があるんですね。それをわれわれは、詰めて繋ごうとしたんじゃないすかね。
 地方分権っていうのは、いまでも、ちょっと普通の人が間違ってんのは、国の権限を地方に譲ることを言っている人が多いでしょ。地方の分権化っていうのは、そんなことじゃないんですね。自分のやりたいことが、独自の権限でできるっていうことがテーマであって、個別のタテ割りの権限を譲る譲らないっていうテーマじゃないんですね。なんか個別の特定の権限を知事に譲ったところで、地元がやりたいことがやれるっていうことには、なんないんですよね。だから、私は、阪神の地震のときも、言ってちょっと、後藤田さんにあんまり早まんないほうがいいよって、言われて止めたんですけども、地震対策を知事に任せるって言っときながら、知事ができる権限っていうのは、国に陳情することぐらいしかないっていうのは、おかしいですよね。だから、特定の事件に対して、特定の期間だけ、知事が国に代わって、代行できるっていう制度を作ろうって言ったんですけどね。それは、震災復興委員会の記録にも残してありますけど、後藤田さんが、今度ここまでやるのは無理だって言うんで止めたんですけどね。沖縄でも、ちょっと私は、特別の権限を知事に与えるっていうことを一度くふうしてみても、いいんじゃないかって思うんですね。だけど、意外と何をやりたいかが、はっきりしないから、権限だけできてもだめなんですね。

江上:それはやはり、沖縄の中でしっかり議論されるべきでしょうね。

下河辺:議論がなされるべきです。

江上:成熟したものにならないと、意味がないですね。で、屋良さんも言ってますけども、沖縄は米軍統治下で主席公選など、数々の自治権を勝ち取ってきた歴史があるけども、日本本土に復帰することによって、そういった自治権が失われるというような言い方をよくしています。それについてはどうですか。

下河辺:だから、核抜き本土並みの本土並みがそういうことだったって思うと青年たちは、嫌がってましたよね。だから、夜中になると、そういう議論ばっかりしてましたよ。本土並みって、いったい何だっていう。

江上:本土並みって、そういうことだったということですね。ようするに、沖縄県として帰るわけですからね。

下河辺:そうですね。

江上:米軍統治下で自治権を勝ち取ったといっても、

下河辺:ヤマトに隷属することでしかないじゃないか、いうことで、米軍の支配からヤマトの支配に移るだけっていう。県民の大部分はそれを歓迎してんだから。

江上:そうですね。

下河辺:しょうがないね。

江上:本土並みになりたかったんですからね。それを沖縄県民の大部分が望んだわけですからね。

下河辺:そうです。

江上:本土並みっていうのは、そういう部分をあるっていうことですよね。米軍に隷属していたのが結局、日本政府に隷属するという形にも見えるということですね。

眞板:そういう主張を沖縄の若い人から聞いて、下河辺さん、率直にどういうご反応だったんですか。

江上:話をされましたか。

眞板:それで、下河辺先生としては、ま、反応というかですね、言うものはどういう風に受け止めていらっしゃったんでしょうか。

下河辺:いやーとにかく、いろんな考えが、あるっていう事実だけはよくわかりましたね。独立した言っていう人から、政府の言うことで、いろいろ陳情だけの関係になっちゃおうって人まで、非常に多様でしたよね。

江上:沖縄って言っても、一口で括れないいろんな人たちと付き合われたんですね。

下河辺:だから、県民のなんか大部分の若者は、世界に出稼ぎに出なさいと、いうことをだいぶ、言ったんだけど、なんかみんな青年たちが、おとなしくなっちゃってましたね。アメリカの文化っていうのが入ってきたっていうのが、琉球魂みたいなものを失わしめちゃったんじゃないすかね。戦争って言うよりはむしろ、占領後のほうが、与えた影響大きいですね。


●コザ騒動について

江上:ところで、70年に大きな事件としてコザ暴動が起こりました。大変な事件でしたけども、幸いに死傷者が出るってことはありませんでした。あの事件を先生はどのように受け取られましたか。

下河辺:いやあ、ちょっと、実相はわかんないね。あれはどういう、ことで起きたんですかねえ。

江上:あれは、主婦をひき殺した米兵を。

眞板:犯人をすぐMPが連れて行って。

江上:連れて行って、うやむやにしようとしたというのを見て。

眞板:うわさで広まって。

江上:うわさが広まって、コザの人たちが怒って、いろんな車を全部ひっくり返したり、燃やしたりしたんですね。

眞板:ただ、秩序だったものだったらしくて、黒人兵のものはひっくり返さなかった。白人兵のだけやったと参加者は言っていましたけど。

下河辺:ま、そういうトラブルは割と勇気ありましたよね。

江上:あの、コザ暴動のときは先生はもちろん、東京にいらっしゃったんですね。

下河辺:ええ、そうです。

江上:事件は大きく報道されましたか。コザ暴動を東京の新聞が報道しましたか。

下河辺:ええ、出てましたよ。

江上:でも、意外と大騒動にならなかったから、すぐ話題から消えたのでしょうね。

下河辺:いやあ、米軍っていうのは、そういうところ、統治が上手だね。

江上:上手ですか。

下河辺:必要があれば司令官が来て謝りもするくらい、社交的ですよね。

江上:沖縄の人たちも、そんなに無茶苦茶はやらないですよね。デモやったりしても、あんまり流血騒ぎにはならない。

下河辺:笑っちゃったのが、大田さんたちとその議論をしたときに、なんか若い兵隊っていうのは、そういうことをすることが、避けらんないねえって。だから、MPがちゃんと管理してないと、いつでもやられる可能性があるねって。米軍でも話題にならなかった事件っていうのはいっぱいあるみたいですね。

江上:やはり血気盛んな米兵を管理してあれするのは実に大変なことでしょうね。

下河辺:大変ですよ。

江上:大変ですよね。

下河辺:だからこそ、家族と共に暮らすっていうことに考えてんですね。独身の子供を家族の家へ招待するっていうようなファミリー型のコミュニティーを意識してますよね。で、戦争が起こっちゃえば、大丈夫らしいんですね。平和だと容易じゃないんですね。


●海洋博と北部振興

江上:話は変わりますが、海洋博が1975年にありましたけど、海洋博については先生どうお考えになっていますか。これは、沖縄にとっては、とくに北部振興にとってはやって良かったんでしょうか。

下河辺:いやあ、なんだか私は、あれに参加しなかったから、わかんない。

江上:そうですか。

下河辺:普天間が移転で、名護に作ろうとした海上プランっていうことと関係があるようなないような、わかんなかったすね。

江上:海洋博には日本にいくつか候補地があって、それを屋良さんが是非沖
縄でやって欲しいと要望されました。

下河辺:そうです。

江上:それで実現したんですよね。海洋博がある前は、北部はまだ本当に僻地という感じで、何にもなかったですからね。


●沖縄本島の東西格差

下河辺:何にもなかった。でも、みんななんか開発は、西海岸の方へ偏った発想でしたよね。

江上:そうですね。

下河辺:那覇から名護まで西ばっかり

江上:そうですね、西側ばかりですね。東側の方はほとんどないですよね。

下河辺:普天間の議論から、そういうことになってったんだけど、名護へ海兵隊を移転するっていうときに初めて、東側の海岸の議論に

江上:なりましたね。なんで、西側ばっかりになったんでしょうか。

下河辺:いやあ、沖縄はもともとそうなんです。

江上:そうですか。

下河辺:だから、東側は開発が非常に遅れてて、道路の整備は悪いし、それで、基地の話があってから、名護で、ちょっと東海岸の開発が、「カヌチャ」っていう話で、ちょっと動いてますけどね。
江上:ええ、そうですね。

下河辺:あれは、私なんかも、ちょっと関係してますけど、なかなか面白いですね。

江上:沖縄でもわりと評判がいいですよね。カヌチャ・ベイは。

下河辺:社長さんがいい人で、なんか私も付き合って、いま息子さんの方がやっているんでしょ。

江上:白石さんですね。

下河辺:白石さん。白石さんの会社が、あんまりうまくいかなくなったそうです。

江上:バス会社もやっておられましたからね。バス会社がうまくいっていない。
観光のくふうを白石さんは、一番やっているっという評判ですけどね。
下河辺:面白い人で、ただ、息子さんってのが良くできた人で、だんだん息子さんが何かはじめんじゃないすかね。

江上:そうですか。だから、沖縄の観光で面白いアイディアとかなんとかを知りたいと言うと、私は白石さんに聞いたらどうか、と答えるんですけども(笑)

下河辺:それは面白い人ですよ。

江上:そうですか。

眞板:比較的最近だと、マリナーズの佐々木。ピッチャーの。彼の専用トレーニング施設とかあるんですよ。

江上:沖縄に。

眞板:カヌチャに。

江上:カヌチャに。

眞板:大魔神何とかといった、そういうトレーニングルームを作って、だいたいオフの1月、2月ぐらいにそこで、佐々木が。

江上:マリナーズの佐々木が。

眞板:トレーニングして。

江上:今年は調子悪かったから、なおさらトレーニングが大事ですね。

眞板:どうなんでしょ。

江上:来期の頑張りのために、沖縄でトレーニングをと。

眞板:それとか、高年齢者が定住できるような、マンションみたいなものを併設していて、めしは食事はホテルと同じものを食べている。リゾート気分で余生を暮らせるというようなこともやっています。

江上:確かに西側ばかりに偏っていて、東側の方はなされていないというのは、いろんなひずみを生んでいるところはあるでしょうね。

下河辺:そうですね。歴史がそうなっていただけで、誰かなんかやろうと思うと、東側っていうのは興味があるんじゃないすかね。

眞板:あの、西銘さんのころに、中城湾港に調査費をつけたりして、あそこを流通加工貿易港みたいにしてこう、なんていうふうにやりましたけど。

江上:いまもやっているでしょ。中城湾で。あそこはかなり工場は入っているでしょう。

下河辺:いやーそんなことないですよ。

眞板:実際は県内の再配置ですよ。

江上:県内再配置ですか。

眞板:はい。

江上:たいしたことない?

眞板:外から呼び込もうとしたんですが、うまくいかなかった。

江上:あ、そう。私の教え子が県庁にいるんですけども、うまくいっている
と言ってたけどなあ(笑)。でも、まだ大規模な展開にはなっていないですね。

眞板:そうこうしていると、泡瀬の方がでてきちゃったので、どうなっているのかなと。

江上:じゃあ、きょうはこのへんで。先生、長い間ありがとうございました。先生、お疲れじゃないですか。本当に長時間のインタビューで。

下河辺:もう疲れてんのは四六時中。

江上:そうですか。もう少し、辛抱してお付き合いいただきたいのですが。

下河辺:ご迷惑なのは、記憶がだんだん衰えて、鮮明にお話できないんですよ。

江上:先生の沖縄関係の資料を私がいただいてしまったので、お答えの時にさぞかし御不自由でしょう。できるだけ先生からいただいた資料に基づいて、次は、一次振計から、二次振計、三次振計などのお話を伺って、その後で、先生の資料が一番たくさん、私のところにきている橋本政権・大田県政のときの普天間問題の頃のお話を是非、お伺いしたいと思います。貴重な資料を私に渡していただいていたことは、十分、わかっているつもりです。

下河辺:いやあもう、沖縄は卒業したっていう気分になっているんです。

江上:資料の大事な部分である普天間の話を是非していただければ、ありがたいと思っています。よろしくお願いいたします。きょうは本当に長い間、ありがとうございました。

(了)
(次回は11月11日午後1時半)



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